保護猫

保護猫さびちゃんとの出会い

2020年夏、私には毎日のささやかな楽しみがあった。

東京都の調布市に住み始めてちょうど一年が経った頃の夏。

いつものようにベランダで洗濯物を干していると、視線の端っこに丸くて茶色いふわふわのかたまりが見えた。

よくみてみると、猫だった。

うちのベランダから見える広場のような場所に猫が一匹、気持ち良さそうに寝ていた。その猫は近くを通り過ぎる人や車を気に止めることなく、陽が落ちるまでずっと同じ姿勢で寝て、日暮れ後、いつの間にかいなくなっていた。

その日から、その猫はたびたびその場所に現れ、何をするわけでもなく、ひたすら寝て、日暮れと共に姿を消した。

気づけば、私は毎朝起きたらまずベランダに出て、その猫がいるかどうかを確認するのが日課になり、その子を猫ではなく、にゃんちゃんと呼ぶようになった。

朝、いつもの場所ににゃんちゃんが寝ている姿を確認できたら、「今日は良い日になるぞー!」と占い的な役目も担ってくれていた。

新型コロナウイルスの影響で引きこもり生活を強いられ、毎日退屈していた私にとってにゃんちゃんは唯一の楽しみだった。

 

そんな生活が4ヶ月ほど続いて季節は冬になっていた。

うちのベランダとにゃんちゃんの寝床は距離が結構ある(部外者は入れない敷地のため近づけない)ので、私がにゃんちゃんについて知っているのは、にゃんちゃんは普通の猫より少し大きめで、毛が茶色で、基本的に昼間は動かないということだけ。

どんな顔しているのか、お腹の色は何色か、どんな声で鳴くとか、好きな食べ物とか、夜はどこで寝ているのかとか、何も知らない。

そんなにゃんちゃんと、ある日道端でばったり出くわした。

夜、仕事が終わって家路についている途中で、正面からゆっくりとこちらに歩いてくる茶色いかたまりがみえた。にゃんちゃんだった。

私は驚きで心臓が止まりそうだった。

それは、ずっと遠くから眺めていただけのにゃんちゃんが突然目の前に現れたからじゃない。

びっくりするほど、みすぼらしかったから。

ベランダから遠くに見えるにゃんちゃんは、普通の猫より少し大きめで、ふわふわの茶色い毛のよく寝る猫。いつもポカポカの太陽の光を浴びて気持ち良さそうにしている自由気ままの幸せな猫だった。……と思っていた。

でも、本当のにゃんちゃんは、ガリガリに痩せすぎて背骨が恐竜みたいにゴツゴツ出てて、毛は酷く絡まり毛玉と言うには大きすぎるダマだらけ。
元々真っ白だったであろう胸の毛は灰色だったし、目はつり上がって焦点もあっていないようだった。
栄養失調なのか、怪我をしているのか、真っ直ぐに歩けてすらなかった。

ずっと私の癒しだったにゃんちゃんは、実際に会うと、これっぽっちも、ほんのこれっぽっちも幸せそうじゃなかった。

ずっと気持ちよさそうに寝ていたんじゃない。きっとあまり動けない状態だったんだ。

にゃんちゃんは、目の前にいる人間の存在を気にする様子を全く見せずに、驚いて立ちすくんでいる私の横スレスレをゆっくりと通り過ぎて行った。

我に帰った私は、走って近くのコンビニに猫の餌を買いに行った。
戻った頃にはもう居なくなっているかもしれないけれど、何かしたかった。いてもたってもいられなかった。
レジに並んでいる時、「神様おねがい。あの子がまだ居ますように。」と心の中で何度も祈った。

走って戻ると、にゃんちゃんはまだゆっくりゆっくり歩いていた。車も通る細い道をフラフラしながら歩いていた。

近くに寄ったけど逃げる気配は一切ない。人に懐いているのか、判断能力が鈍っているかわからないけど、前者であって欲しい。

買ってきたばかりの餌を出すと、物凄い勢いで食べてくれた。結構な量があったはずだけど一瞬で平らげた。

その後、道の隅に出来た水溜りの泥水を飲んでまた歩き出し、そのまま民家に入ってしまったので、それ以上ついてはいけなかった。

次の日の朝、起きたらすぐにベランダに出てにゃんちゃんがいるか確認したけど、いなかった。そしてこの日の日中は一日姿を見せてくれなかった。

いても経ってもいられなくて昨夜と同じ時間に猫の餌を持って近所を探し歩くと、あっけなくまた会えた。

昨日と同じくふらふらゆっくり歩いていたので餌を差し出すと、またバクバクと食べ、昨日と同じ民家の敷地へ向かって歩き出した。

よろよろと歩く後ろ姿を見送りながら、「ウチに連れて帰る」という選択肢が一瞬浮かんだけどすぐにかき消した。

理由は、にゃんちゃんが昼間いつもいる敷地で、にゃんちゃんに水をあげている人がいるのを知っていたから。私以外にこの子を気にかけて世話をしている人がいる。
だから私が連れて帰る必要はないと判断した。それに私が勝手に連れて帰ったら、急に現れなくなったにゃんちゃんを心配するだろうし。

 

……本当はわかっていた。
にゃんちゃんは、ちゃんとお世話されてなんかいない。
確かに同じ人から水をもらっているところをベランダから何度も目撃した。
だけど、もし本当に世話をしてもらっていたら、こんなに痩せ細っていない。こんなにめちゃくちゃな毛並みになっていない。

だけど、私は結構ひどい猫アレルギーを持っている。猫を飼っている友人の家に行く時は必ずマスクを着用するけど、それでも鼻水はズルズルになるし、目や喉は掻きむしりたくなるほど痒い。

金銭的な問題もあった。ずっとイベント業で生計を立ててきた私は、新型コロナウイルスの影響で1年間近くイベントの仕事が全くない状態だった。イベントの収入はもうずっと0円。自分1人が生きていくのもギリギリの状態で、弱った猫を養い、世話をする余裕は一切なかった。

私は連れて帰らないでいい理由を探し、自分自身を納得させただけだった。
この子を連れて帰ったら大変な思いをすることは目に見えていたから。だからできれば連れて帰りたくないのが本心だった。
できれば私以外の誰かにこの子を保護して欲しいかった。

にゃんちゃんの後ろ姿を見て胸がチクリといたんだけど、私はそのまま家に帰った。

 

のちにこの選択を心から後悔することになる。

 

にゃんちゃんは、この日を境に、姿を消した。

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